初任給も管理職賃金も上がる時代へ:愛知の賃金調査から読む「採用・離職」対策

賃上げは「採用」だけでなく「離職防止」に直結
賃上げというと「採用のために必要なコスト」と捉えがちですが、いま本当に効いているのは“離職防止”のほうです。初任給が上がる一方で、2~5年目の若手や、現場を回している中堅が「自分の上がり方が遅い」と感じると、静かに転職市場へ流れていきます。採用しても定着しなければ、教育コストや現場の負担は増え、結局は生産性が落ちます。特に中小企業では、一人抜けた影響が大きく、代替も簡単ではありません。だからこそ賃上げは“入口”だけではなく、入社後の賃金カーブ(昇給のルール)や評価の納得感まで含めて設計することが、採用力と定着率を同時に高める近道になります。

愛知のモデル賃金は全世代で改善、35歳34.7万円
今回の「愛知のモデル賃金調査(2025年度版)」で押さえておきたいのは、賃上げが一部の層に限られず“全世代に広がっている”点です。総合職・大卒のモデル賃金は、35歳で34.7万円となり前年比4.0%増。さらに、22歳・35歳・50歳・60歳といった主要な年齢ポイントのいずれも前年を上回り、改善幅はすべて1万円超、伸び率も3.8~5.1%増と総じて前年より強い上昇になっています。若手の初任給引き上げが目立つ一方で、全体の賃金カーブ自体が持ち上がってきている、という見方ができます。実在者の管理職賃金でも、部長相当で57.9万円、課長相当で46.9万円と、ともに1.3万円以上増加しており、管理職の処遇も動き始めています。
つまり、採用市場だけでなく社内全体で「賃金を上げる流れ」が進んでいるということ。中小企業にとっては、世間相場が上がるほど“据え置き”のリスクが大きくなるため、自社の賃金水準と昇給の仕組みを早めに点検する材料になります。

「モデル賃金」と「実在者賃金」の違い
賃金調査を読むときに最初に理解しておきたいのが、「モデル賃金」と「実在者賃金」の違いです。モデル賃金は、学校卒業後すぐ入社し、その後“標準的”に昇進・昇格してきた人を想定し、各社の賃金規程や賃金表を当てはめて算出する“理論上の賃金”です。つまり、賃金テーブルが描く「この年齢・この等級ならこのくらい」という設計図を数字にしたもの。一方、実在者賃金は、実際に在籍している管理職(例:課長相当、部長相当)に支給している賃金の実績値で、個々の評価、担当業務、役割の重さ、人材市場での希少性などが反映されやすいのが特徴です。
中小企業がこのデータを活かすコツは、両者をごちゃ混ぜにしないことです。モデル賃金は「賃金表の妥当性チェック」に向きます。年齢や勤続に応じて自然に処遇が上がる設計になっているか、初任給を上げた結果、途中の層が薄くなっていないか、賃金カーブの歪みを発見できます。実在者賃金は「現場の実態チェック」に向きます。管理職の処遇が役割や責任に見合っているか、特定部署だけ高止まりしていないか、逆に“抜けやすい層”が低くなっていないかを確認できます。まずは設計図(モデル)と現実(実在)を分けて把握し、どこを直せば採用と定着に効くのかを見極めることが重要です。

初任給が上がると起きる“社内のひずみ”3つ
初任給を上げること自体は、採用競争の中では避けて通れない施策になっています。ただし、上げ方を誤ると社内に“ひずみ”が生まれ、採用できても定着しない状態になりがちです。代表的なひずみは3つあります。
1つ目は「新人>若手」の賃金逆転です。入社2~5年目の社員が、成果も責任も増えているのに、新入社員と給与差がほとんどない、あるいは逆転するケースが起きます。若手は成長が早い分、転職市場の情報も早く、違和感を抱くと離職に直結します。
2つ目は「評価制度への不信」です。初任給が一律で大きく上がると、既存社員から見ると“評価で上がる仕組み”より“採用の都合”が優先されたように映ります。「頑張っても報われない」「評価は形だけ」という空気が広がると、職場のパフォーマンスにも影響します。
3つ目は「既存社員のモチベ低下」です。中堅層や現場リーダーは、教育・引継ぎ・顧客対応など“見えにくい負担”を背負っています。そこが報われないと、積極性が落ち、結果として新人の育成も回らなくなります。
この3つを放置すると、採用コストをかけても離職で帳消しになり、現場は慢性的な人手不足に陥ります。初任給を上げるなら、同時に「2~5年目の昇給の作り方」「評価と昇給のつながり」「リーダー層の処遇」を点検し、社内の納得感を崩さない設計にすることが重要です。

中小企業がやりがちなNG:初任給だけ上げて賃金テーブルが崩れる
中小企業でよくあるNGが、「初任給だけ」を先に上げて、賃金テーブル(給与体系)全体の整合性が崩れてしまうケースです。採用のために入口を引き上げたものの、2~5年目の昇給原資やルールはそのまま。すると、入社後しばらくしても給与が思うように伸びず、「この会社は上がらない」と判断されて離職が増えやすくなります。特に若手は、生活費の上昇や結婚・住宅など将来設計を意識し始める時期に差しかかるため、“伸びない実感”が転職の引き金になります。
さらに厄介なのは、賃金逆転や給与差の縮小が起きることで、現場の空気が悪くなる点です。新人と年次社員の差が小さいと、教育担当の若手が「教える側のメリットがない」と感じたり、評価で差がついているはずなのに反映されないことで、評価制度そのものへの不信につながります。結果として、採用に成功しても育成が回らず、定着しない悪循環になります。
対策の基本は、“入口→中堅→管理職候補”の順で連動させて設計することです。入口(初任給)を上げるなら、次に2~5年目の賃金カーブを見直し、成長に応じて上がる実感を作る。その上で、将来のリーダー層(主任・係長・課長候補)が「ここで頑張れば報われる」と思える処遇と役割を整える。全社員を一律に上げる必要はありませんが、重点層の“上がり方”を連動させることで、採用力と定着率を同時に底上げできます。

若手の次は「管理職」:課長46.9万円・部長57.9万円が示すもの
若手の賃上げが注目されがちですが、次に効いてくるのが「管理職の処遇」です。今回の調査では、実在者賃金として課長相当が46.9万円、部長相当が57.9万円まで伸びています。これは、長く“据え置かれやすい”と言われてきた管理職賃金で改善が本格化し、「昇格しても報われない」状態を見直す動きが強まっているサインです。背景には、管理職候補が不足していること、そして中堅~若手管理職が引き抜きのターゲットになりやすいことがあります。昇格して責任や業務量だけ増え、手当や裁量が追いつかない会社ほど、管理職になること自体が“罰ゲーム”に見えてしまい、手を挙げる人が減ります。結果として現場の意思決定が遅れ、社長や幹部に負荷が集中し、組織が回りにくくなります。中小企業こそ急務なのは、昇格メリットの再設計です。ポイントは「処遇(基本給・役職手当)」「裁量(決裁権・人員配置など)」「評価(何を成果とみるか)」をセットで整えること。金額だけを上げるのではなく、役割と権限に見合う形に揃えることで、管理職登用が前向きになり、定着にもつながります。

引き抜きが起きる会社の共通点:中堅・若手管理職候補が狙われる
引き抜きが起きやすい会社には共通点があります。それは「現場で鍛えられて仕事ができるのに、評価や処遇の筋道が見えにくい」こと。中小企業では、一人ひとりが幅広い業務を任される分、実務力が早く身に付きます。だからこそ大企業は“育った人”を採りに来ます。特に狙われやすいのは、中堅層(入社5~10年程度)や、主任・係長・課長候補といった若手管理職層です。本人からすると、仕事内容は変わらず責任だけ重くなるのに、給与の伸びが小さい、評価が上司の感覚に左右される、昇格の条件が不透明…となれば、外から提示される「条件が明確で、役割がはっきりしたオファー」に心が動きやすくなります。
ただし、引き抜き対策を「給与を上げれば解決」と考えて金額一本勝負にすると、体力のある企業に勝ちにくい上、社内のバランスも崩れがちです。中小企業が取るべき現実的な対策は、役割・育成・評価の“見える化”をセットで進めることです。たとえば、次の役職に上がるために求める行動やスキルを明確にし、育成の機会(任せる仕事、研修、面談)を用意する。評価も「何をやれば上がるのか」を言語化し、納得感を作る。さらに、裁量や働きやすさ(柔軟な働き方、意思決定の速さ)といった中小企業の強みを、制度として整える。これらが揃うと、外部オファーが来ても「ここで成長できる」「ここで報われる」と踏みとどまる理由になります。

賞与は「月数」だけで比較しない
賞与(ボーナス)を検討するとき、つい「何カ月分か」だけで相場比較しがちですが、月数だけでは実態を正しくつかめません。なぜなら、月数が同じでも基礎となる月例賃金が違えば年収は大きく変わるからです。たとえば「4.5カ月」と聞くと高く見えても、基本給水準が低ければ総支給額は伸びません。逆に、金額だけで比較すると別の誤解が起きます。会社規模や職種構成で平均額は変わりますし、役職者比率が高い会社ほど平均が上振れします。「うちの賞与が少ない」と早合点して制度をいじると、固定費化して後戻りできなくなることもあります。
中小企業が賞与設計で大切にしたいのは、社員の納得感と会社の継続性を両立することです。そのための現実的な方法が、“固定+業績+評価”の配分をシンプルにする考え方です。たとえば、最低限の生活安定につながる固定部分を小さめに置き、会社の利益状況に連動する業績部分を明確にし、個人の頑張りを反映する評価部分をわかりやすく加える。ポイントは、ルールを複雑にしないこと。「業績がこうなら何割」「評価がこうならいくら」のように、説明できる形にしておくと、不満の芽を抑えやすくなります。賞与は“気分”で出すお金ではなく、採用・定着・生産性に効く制度設計の一部です。月数と金額の両方で自社を点検し、支給の根拠を言葉にできる状態を作ることが、強い組織につながります。

退職金は後回しにしない:制度の有無が定着に効く
退職金は、求人票に載せても若手の応募動機になりにくく、「今は目の前の給与が大事」と見られがちです。そのため中小企業では後回しにされやすいのですが、実は定着に効く“安心材料”としての効果は大きい制度です。特に中堅以降は、結婚・住宅・子育てなどライフイベントが増え、将来の見通しが立つ会社ほど「長く働こう」と判断されやすくなります。退職金があることで、会社が長期雇用を前提にしていることが伝わり、離職の抑止力になりやすいのです。
ただし、退職金を「とにかく増やす」方向で動くのは危険です。原資の裏付けがないまま約束すると、業績悪化時に大きな負担になり、制度変更も簡単ではありません。現実的な進め方は、まず制度設計と説明の整備から入ることです。具体的には、①対象者(正社員のみか、契約社員はどうするか)②算定方法(勤続年数・等級・退職理由でどう変わるか)③例外(懲戒、短期退職、会社都合など)を明文化し、社内で説明できる状態にします。ここが曖昧だと、「人によって違う」「結局いくらもらえるのか分からない」という不信感につながり、制度があっても安心にはなりません。
まずは“分かる退職金”に整える。次に、資金繰りや人件費計画と整合させながら、必要なら段階的に見直す。退職金は派手さはありませんが、長期定着と信頼を積み上げる土台として、いまこそ点検しておきたいテーマです。

まとめ:採用・離職対策は“賃金設計の順番”で決まる
採用と離職の問題は、結局のところ「いくら払うか」だけでは解決しません。中小企業が勝ち筋を作るカギは、“賃金設計の順番”を間違えないことです。場当たり的に初任給だけ上げたり、引き抜き対策で一部の人だけを上げたりすると、社内の納得感が崩れて逆効果になりやすい。だからこそ実務では、次の順で進めるのが安全です。

 ①現状把握:等級別・年齢別の賃金分布、採用時の提示条件、離職理由(面談記録や退職時アンケート)を整理し、「どこで詰まっているか」を見える化します。
 ②重点層を決める:全員を同じだけ上げるのは難しいので、若手・中堅・管理職候補のうち、事業の要となる層、流出が痛い層を明確にして守る戦略を取ります。
 ③賃金テーブルと評価を接続:昇給が“なんとなく”だと不満が溜まります。何を達成し、どんな行動をすれば上がるのか、評価と処遇のつながりを作り、「上がる理由が見える」仕組みにします。
 ④社内説明:最後に重要なのが伝え方です。目的(採用・定着・育成)と基準(公平性)を丁寧に説明し、不公平感を最小化します。

賃金調査データは、そのまま真似するための“正解”ではありません。自社の給与体系が市場から見てどこが弱いのか、賃金カーブや管理職処遇に歪みがないかを点検する「ものさし」として使うことで、採用力と定着率を同時に高める打ち手が見えてきます。
賃上げは「金額」だけでなく、「上がり方(昇給ルール)」まで整えるほど離職が減りやすくなります。